憲法記念日に考える [国政]

カウントダウン 164です。

きょうは、憲法記念日。

憲法といえば、9条ですかね。

憲法は、通常の法律や条例が、国民市民に対し、その権利を制限したり、義務を課したりするのに

比べ、為政者たる国や政府を制限するものと記憶している。

改めて、国、政府の現状をある事件から考えてみる。

一つは、防衛である.

先日あるテレビ番組で、沖縄の基地について討論があった。

何故基地が必要か。国側の立場の人は、自民党であれ民主党であれ、アジアの緊張の

増大を理由に、紛争戦争抑止力として、必要という。

基地住民側は、基地があるから巻き込まれるのだという。太平洋戦争でいやというほど、

味わった。

必要側は、抽象的な概念論でしかなく、反対側は、沖縄の歴史的事実からの体験論である。

日米安全保障条約が、有効に機能しているから、基地があるから、平和が保たれているという。

では何故、有効なはずなのに、北朝鮮のミサイルが飛んでくるのか、と反対側はいう。

疑問を感じた。

米は、本当に平和を願っているのだろうか。

脅威の対象としている中国に、米の兵器を大量に輸出している。

自らが、脅威のもとをつくっておいて、

脅威があるから、基地や軍事同盟が必要だというのは、おかしいのではないか。

資本主義というマネーゲームを前提としているので、軍需産業、兵器産業は容認して、

それを基にして、危機脅威をあおり、軍需防衛予算を執行し、ゲームを拡大している。

マネーゲームを根本に置いた、パワーゲームである。

軍事評論家の話は、ゲームソフトで遊んでいるゲーマーようだ。

それがお好きな方は、パソコンの中で十分におやりください。

国民の尊い生命・財産・人権に関わる政治の上では、止めてほしい。

もっと真剣に、話し合って、友好関係で、誰もが望んでいる平和構築へ努力して欲しい。

理想論では駄目だと、よくおっしゃる。歴史を見れば、戦争の繰り返しだ。人類の宿命だとも。

個人レベルでは、国を超えた、民族を超えた、宗教を超えた争いはないはずだ。

それが何故か、国という、宗教という良く分からないものの段階になると、対立が始まる。

国や宗教を守りたいために、そこで団結するために、仮想敵を作り上げているのではないか。

国がなければ、宗教がなければ人々は、安穏な生活が人生が送れないという幻想に惑わされていないか。

原点に返ろう。まずは、人間、個人ありきであった。国や宗教は一つの仕組み、手段であったはずである。

もう一つは、関越高速での貸切バス事故である。

今回の事故は、確かに運転手に非はある。職業上の義務を適切に遵守しなかったので、当然である。

バスの運行会社も、管理責任は免れない。

小泉改革以降、自由競争社会で推進してきた側(国・政府)の反省として、

セイフティーネットをしっかりと整備する必要があると、何度も聞かされてきた。

自由競争では、コストダウンが強く求められる。

どこまで自由を許すのか、当事者(旅行会社とバス運行会社)間では、立場上旅行会社が強い。

そこで、安全、安心、健康などを配慮して、一定のルール・指針をかけるのが、国・政府である。

ところが、国交省の定めたルールは、根拠が不明で、旅行業界の要望に沿ったのではないかとも

いわれている670km/日までは、1人乗務できるというものだった。

さらに、総務省の見直し勧告が2010年に出され、3回勉強会をして、そのままになっていた。

縦割り行政というか、責任感のなさ、いわゆる公務員体質そのものが露呈した事件である。

今回の真の加害者は、国交省安全政策課ではないか。県警は、ここを捜索すべきである。

政策課は「上限値も含めて見直しを議論していくことになる」とコメントしている。

当事者意識が全くない。

真の加害者は、責任は取らず、自覚さえせず、管理者として、今後も居続ける。

3.11で明らかになった政府の体質、未曾有の事故ということである面大目に見てきたが、

関係ないことが分かった。

彼等の本質なのである。

末期的症状ではないか。

以上二つのことから、憲法、国について、考えてみた。

市政に市民目線、感覚を!の 袖ケ浦市議 田中 てるひろ

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