分別と行動その2 [民主主義]

カウントダウン 358です。
先日ある会合に出席した。そこでは、放射性物質の水源地への搬入反対のことが議論されていた。
そこには、中高年の政治的関心が極めて高い方々が出席されていた。

前に、「経験が禍し行動に対して躊躇するようになる。分別もどきにおさらばして」と書いたが、
ここでも、まず、分別ありきであった。搬入反対の趣旨を説明すると、”では、その放射性物質が混入した
廃棄物をどうすればいいの、どこに捨てればいいの、自分のとこで、なければいいの。”という意見が出た。

それは非常に難しい問題である。
しかし、それを解決する責任は、電力会社、国にはあっても、私たちにはない。
次々と原発が、作られてきたのを容認して、それが作り出した電力を使用したことでの慙愧の念はあっても、
今回の放射能問題の責任はないのである。よって、そこまで踏み込む必要はないのではないか。
われわれは、とにかく自分たち、住民が、困るのだと訴えればいいと思うのである。
あらゆるところで、住民が意思表示をして、自治体をうごかして、自治体が国に対し早急に対策を取るように
迫ることが必要である。国は、責任は国にあるといいながら、暫定基準を徐々に甘くして、各地に埋立拡散しようとしている。それが進めば、放射能焼却灰や放射性ガレキの問題は一応片が付くと考えているようだ。
本気で責任を取る気はないと思う。その手に乗っては駄目で、国を追いつめて、けつをたたき、一番したくない
選択を取らせなければならない。それは、福島原発の敷地内に搬入することである。
ごみ問題で、私は、包装容器の、ごみの中での割合が多いので、お店で買った商品は、できるだけトレイや袋から取り出して、薄いビニール袋に移し変えて、嵩張るトレイ袋はお店に返している。”私は、裸のもの買いたいものを、求めていて、不要な包装は求めてない”との意思表示である。
それと同じで、焼却に出したごみは、放射性物質なしのもので、放射性物質は、今回の事故で電力会社がばらまいたものであり、もともとの所有者は、電力会社である。よって、その放射性物質は、元の持ち主に返すことが、理にかなっていると思う。
それでは、益々福島には、人が住めなくなり、国は住民に対し、除染作業が完了したら、地元に戻れるような話をしているものだから、その期待を大きく裏切ることになり、第二の沖縄になってしまう。

なんだかんだと、ごまかし、欺瞞でその場しのぎのいい加減な処置を考えている国に、背中をドーンと押してやる必要がある。国、電力会社の当然負わなければならない責任を、住民や自治体が負う必要は全くないし、
考慮する必要もない。
このような分別は、あってはいけない、クソクラエである。
分別よりも、素直に湧き上がる感情こそが、大事である。それが、まずあってこそ、そのずっと後に分別という順である。
今の若者は覇気がないとか、草食系とか評されているが、素直な感情がわきあがる前に、周りから、情報から、分別が叩き込まれて、感情が押さえ込められていたり、感情の芽が摘み取られてしまっているのである。自己責任意識からの自己規制である。常識を恐れての、自己規制である。
まさしくこれは、私たち大人の責任である

現状を見てみよう。私たちの分別が作り上げたこの時代、どうであろうか。
頭の中で考えた分別よりも、生命体として体から湧き出る感情こそが大事ではないだろうか。
言い換えれば、科学技術よりも、自然の威力こそが勝っているのではないか。

大人たちよ、分別を頭から取り去り、自然な素直な感情で、生きてみないか。今の世界を覆っている暗黒の雲を取り払うには、これしかないだろう。

     市政に市民目線、感覚を!の 普通の一市民   田中 てるひろ
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